「小瓶」
SHISHAMOの『花』という曲を題材に
「小瓶」というタイトルで小説を書きました。
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行かないで。
泣きそうな言い方、怒った言い方、眠そうな言い方、呆れた言い方、甘えた言い方、高慢な言い方、下卑た言い方……。
色々なパターンを考えてみるけど、どれもしっくりとこない。
行かないで。
実際にそう呟いて、わかった。あなたには、この言葉は似合わない。あなたはどこにでも行けて、わたしにはそれを止めることができない。
あなたと出会ったのは、大学の研究室だった。わたしは学部の4年生で、あなたは修士の2年生だった。
あなたはよく、研究室で缶ビールを飲んでいた。わたしは卒論を書きながら、あなたをよく、横目でチラチラと見ていた。
「ビールを飲むと、気持ちよくゲップが出るんだ」
あなたが初めてわたしに発した言葉は、ゲップについてだった。そしてあなたは缶ビールを持ち上げて、わたしに訊ねた。
「なに、飲みたいの」
でも、卒論が。
「おれだって、修論」
じゃあ、なんで。
「少しアルコールを入れたほうが、頭がさっぱりとするだろ」
そうかな。逆な気がするけど。
「なあ、論文に必要なことって何かわかるか」
論理性、新奇性、再現性。
「マジメか。正解は、指導教員をいかに欺くかだ」
でも。
あなたは2留してるじゃない、という言葉は仕舞っておいた。かわりに、わたしにもビールを頂戴、と言った。
あなたのことを不思議な人だと思っていたら、気づいたときにはあなたと体を重ねていた。
だめ。
誰もいない、深夜の研究室だった。
わたしは抵抗したが、あなたは、わたしが本気で抵抗するつもりがないことに、気づいているようだった。
「厭ならなんで、おれがキスをしたら、舌を入れてきた」
わたしは、頬が熱くなるのを感じた。
そしてわたしたちは、声を抑えてもう一度愛し合った。
それから5年。
あなたは3度浮気をして、わたしは3度あなたを許した。そしてわたしたちは結婚した。両親にはかなり反対された。それもそうだ。あなたは結局大学院を卒業できず、わたしの卒業と同時に除籍となった。
その後は、小説家になると言ってみたり、カフェを開くと言ってみたり、おれはダメな人間だと言って鬱の真似事をしてみたり、あなたはいつも何かになりたがっては、何にもなることはできなかった。
わたしの夫になら、なれるんじゃないかな。
これといって、考えがあるわけじゃなかった。ただ、だんだん崩れていくあなたを、見ていられなかった。
「同情か」
あなたは卑屈に笑った。
わたしは、違う、とは言えなかった。違う、と言った瞬間に、あなたを本当に侮辱することになる気がした。だから、わたしはただ、あなたを抱きしめた。
もう、もがかなくていいの。何かになろうとなんて、しなくていいの。あなたは、わたしの夫だから。ただ、ここにいて、わたしを愛して。
でも、わたしと結婚してもなお、あなたは浮気を繰り返した。浮気相手と会うときは、いつも飲むコーヒーを、飲まない。
行かないで。
コーヒーを飲まずに出かけていくあなたの背中に、そう伝えるべきだろうか。でも、あなたに言っても仕様がないことは、わたしが一番よく知っている。あなたは、いつかどこかへ行ってしまうような、そんな女に惹かれてしまう。
わたしだって、いつまでも、今のわたしのままでは、いられないのよ。
今日は、コーヒーを飲むだろうか。今日はわたしたちが付き合って、5回目の記念日だ。
わたしはあなたの喉元を、じっと見ている。あなたはわたしの視線にも気づかず、上の空だ。あなたの喉元を、コーヒーが通れば、わたしは自分を失わずにすむ。
お願い、飲んで。
わたしはインターネットで買ったガラスの小瓶を、少し汗ばんだ手にぎゅっと握りしめた。
わたしが、何者かになってしまう前に。わたしを、あなたの恋人でいさせてください。あなたの妻でいさせてください。わたしは、どこにも行かないから。あなたがあなたでいるところを、ずっと見続けるから。
あなたはすっと立ちあがり、コートを羽織って出かけていく。
わたしは、あなたが出ていった部屋で、テーブルの上に残る冷めたコーヒーを、ずっと見つめていた。
手の中の小瓶が、汗で滑って床に転がり落ちた。
わたしは……、わたしも……。
広がっていく小瓶の液体を見ながらそう呟いて、わたしはそこで、口を噤んだ。
「ちがう、それは恋じゃない」
今回は、『生きるガール』をテーマに小説を書きました。
主人公は、『生きるガール』という架空の曲を書いた歌手、という設定ですので、朝子ちゃんは関係ありません。
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忙しさはわたしを追いつめる? いいえ、それはノット。わたしが忙しさを追いつめているの。わたしはどんどん忙しさを抱えこんで生きている、半年前から。わたしはカラッカラに乾いたスポンジになった気分だ。いくらでも、忙しさは得られる。
あいつとの別れが、わたしを変えた。理想を歌うことにこだわっていたわたしが、はじめてわたしの現実を歌にした。自分のことを歌うなんてありえねえ、わたしはわたしが作り上げた世界を歌いたいんだ、なんてね、これ、ちょっと前のわたし。とんがってる、かなり。
でも、生きるガール。なかなか悪くないと、我ながら思っている。あいつのことを歌った曲を作るのに抵抗はあったけど、わたしのクリエイテビティが逆転満塁場外ホームランだ、バカヤロウ。気づくと歌詞がメロディに乗っていた。
無意識の贈り物。サイコー。
わたしは今、生きるガールに続く第二の “あいつソング”を作っている。あいつがいない世界での、孤独と、再起と、希望の歌になるはずだ。失恋に悩む女の子の心に、少しでも届くような曲にしたいなあ。
今はもうわたし、曲を作るためにしか、あいつのことなんて思い出さない。わたしはすっかり失恋の沼から這い上がり、今日の晩御飯どうしようかとか、くっそくだらないバラエティでゲラゲラ笑うとか、そんな日常を楽しめている。あいつとの恋は、わたしにとってはもう、切り落とされたトカゲの尻尾でしかない。ちょっとだけヒクヒク動いて、あとは干乾びて分解されて消えていく。可哀想に。同情。チーン。
だから半年ぶりにあいつから連絡があったときは、机の奥底に隠していた三十九点の数学のテストが、数年ぶりにぐっちゃぐちゃになって見つかったような、そんな気持ちになった。しかも、今どき手紙って。あいつ意外と達筆だったんだ、なんて今更なプチ発見もあったけど、内心読むのダルいなあとしか考えてなかった。
だって半年ぶりにきた別れた彼氏からの連絡、しかも手紙! ぜってー復縁。もしくは貸した金返せ? 何にしてもめんどくさい。
でもわたし、今は失恋を完治させ新曲に意欲を燃やすキラキラ系独身ミュージシャン(自称)。読んでやろうじゃないの、広い心でさ。んで読んだらゴミ箱にポイすればいいじゃない。記憶も同時にポイ。もしくは、手紙と記憶を同時にシュレッダー。軽い気持ちと、ノリ、これ大事。
さてさて、元カレ君が送ってくれた手紙を読んであげようかしら。そうやって、わたしなりに身構えて開いた手紙、それを越えてくる衝撃。
ユイへ
新曲聞いたよ。生きるガール、いい曲だった。
次はこんな曲作ってくれないかな、死せるボーイ、って感じの、男目線の失恋ソング。
ごめん、俺から別れようって、言ったのに、ユイが前を向いて、すげえいい曲を作ったのを知って、なんか、俺、胸の奥からモヤモヤが取れなくなった。
いろんなことが厭になった。
たまたまユイの住んでいるアパートの前を通った。見るつもりじゃなかったけど、ユイの部屋のベランダには、見慣れた服が干されていて、ヒラヒラと風と共に踊っていた。ユイは俺のことを忘れて、洗濯物も干せている。ヒラヒラと、一人で優雅に舞い踊っている。
なのに、俺は、いったい何をしているんだ? こんなにクヨクヨしている自分を思うと、つくづく実感するよ。俺はやっぱり、ユイに本気で恋をしていたんだって。
情けなくて、辛くて、もう厭なんだ、こういうの。
よくあるセリフだけど、せっかくの機会だから、俺も言ってみようかな。
この手紙がユイに届くころ、俺はもうこの世界にきっといない。
今まで、本当にありがとう。俺のことなんて忘れて幸せになってくれ。
T・Kより
あいつは、わたしに今でも恋をしている? だから、わたしがあいつのことを忘れて生きていることが辛い? だから、死ぬ?
ちがう、それは恋じゃない。
もし恋をしているのなら、していたのなら、わたしにこんな手紙を送ってくるわけがない。
あいつにあるのは、ただの、醜い独占欲と執着心だ。
これでもし、本当にあいつが死んだとしたら、わたしはきっとまた、沼の底に沈んでいくのだろう。いや、死ななかったとしても、わたしはあいつと付き合ったという刻印を、一生胸から消すことはできないかもしれない。
この手紙は、そういうことを狙って送られたのだ。自分から振ったくせに、あっさり忘れられるのは許せない、腐った性根。どんだけ自分を買いかぶっているのだ。
でも、わたしは大丈夫。前を向くことができる。何度転んでも、深い沼の底に突き落されても、辛くて泣きたいときも、痛くて負けそうなときも、何度だって這い上がってみせる。そして、わたしの曲を好きでいてくれる人のために、いつまでも、歌い続ける。
「春の終わり、夏の始まり」
「第3ボタン」や「さよならの季節」のその先を小説にしました。ラストを用意するなんてタブーだと思うのですが、しかも、用意したラストも、ねえ。
賛否両論あるとは思いますが、あくまで一つの小説として読んでいただけると嬉しいです。
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満開だった桜の花びらは、どこに行ってしまったのだろう?
私の恋が破れて、もう二か月がたつ。はかなく散った桜の花びらみたいに、私の恋も終わってくれればいいのにと、いつも思う。
いつまでも、先輩のことばかり考えていてはダメだとわかっている。でも、先輩の影が亡霊のようにつきまとう。
校庭では、三年生の男子が体育の授業をしていた。先輩の姿はもうそこにはないのを知りながら、無意識のうちに、先輩を探している私がいた。
「今日は五月二十日だから、出席番号が、五たす二十で二十五番の……ハマモト、この問題の答えは?」
ふと私の名前が呼ばれ、意識を教室に戻した。
フケを肩に落とした数学教師が、私のことをじっと見ていた。クラスメートは、私が答えるのをじっと待っていた。黒板には訳のわからない数式が並んでいて、私はまっさらな数学のノートを絶望的に眺めた。
「わかりません……」
私は、肝心なときに何も言えない。何もできない。先輩に声を掛けられないまま終わった三月から、私は何も変わっていない。
先輩が年上の彼女とともに学校を去っていくとき、私はその安心しきった背中を追うべきだったのだろうか? 恋に破れることを知りながら、大きな壁にぶつかるべきだったのだろうか?
出口のない疑問に思いをめぐらせているうちに、数学教師は教室から去り、周りは昼休みに入っていた。私の前の席のアキちゃんが、ピンク色の小さなお弁当箱を持ちながら振り向いて、「ヤスコちゃん、さっきボオッとしてたでしょ?」と言った。
アキちゃんが振り向いたときに、校則に反して染めている茶色い髪の毛から、甘いシャンプーの香りがした。私はその香りにつられて、うん、と頷いた。
「やっぱり」とアキちゃんが言った。「もしかして、またヤスダ先輩のこと考えてた?」
私は、アキちゃんの勘の鋭さにうろたえつつも、「もう先輩のことは諦めたからいいの」となんとか取りつくろった。
「そうなんだ」とアキちゃんは言った。「じゃあもう、こんなこと言っても仕方ないか」
「え、何?」と私は思わず訊ねた。
「ツイッターで見たんだけど」と前置きして、アキちゃんは言った。「ヤスダ先輩、彼女と別れたみたいだよ」
「ほんとに⁉」
私は、突然現れた驚きと喜びを、表情の裏に隠しきることはできなかった。
放課後、昇降口掃除の担当の私とアキちゃんは、形式的に箒で地面を撫でながら、無為な時間を過ごしていた。
アキちゃんは、部室へ向かうサッカー部の先輩を目で追うのに必死だった。短いスカートを揺らしながら、熱い緑茶を飲んだときのようにしみじみと、「イケメン、ああイケメン……」と呟いていた。
そんなアキちゃんに、私は疑問を呈した。
「サッカー部の先輩だからイケメンなんじゃなくて、イケメンな人がたまたまサッカー部の先輩なだけだよね?」
「うーん、でもサッカー部って時点でポイント高いし。それに、先輩補正の威力は相当だよ」とアキちゃんは言った。「ヤスコちゃんも、ヤスダ先輩が先輩じゃなかったら、そんなに思い続けていられないと思うよ。近寄りたくても、声を掛けたくても、簡単にはできない。遠い存在だから、その人の匂いも、声も、何も知らない。だからこそ、行き場のない好きって気持ちが、いつまでも心に残るんじゃない?」
「そっか……」と言いながら私は、花壇のマリーゴールドをぼんやりと見ていた。
「ねえ!」とアキちゃんは、突然大きな声を出した。
私が花壇からアキちゃんに視線を移すと、アキちゃんは昇降口の奥を指差していた。
「あれ、ヤスダ先輩じゃない?」
そんな訳ないと、アキちゃんの指の先を見ると、見慣れた先輩の姿が目に飛び込んできた。
「え、ほんとだ。どうしよう、どうしよう……」と慌てふためく私を尻目にアキちゃんは、
「私、サッカー部の練習見に行くね!」と私の背中を押すようにして行ってしまった。
一人残された私は、私のことなんて目にも留めない先輩の背中を、じれったく眺めていた。どんどん小さくなっていく先輩の背中を見ながら、私は思った。このままでいいのだろうか? また私は何もできないまま、先輩を喪うのだろうか? そして空虚な妄想と共に、先輩のことをいつまでも思い続けるのだろうか?
三月のあの日に踏み出せなかった一歩を今、踏み出すのだ。私は、心を決めた。
「ヤスダ先輩! 待ってください!」
先輩はびっくりしたように振り返った。
その瞬間、どれだけ先輩を見つめていても合わなかった視線が、ぴったりと重なった。
私は、息を吸えるだけ吸い込んで、そして吐けるだけ吐き出した。
「私、二年四組のハマモトヤスコと言います。いきなりすみません」と私は言った。そして思い切って先輩に訊ねた。「この後、少しだけ時間、ありますか?」
新緑の木々の隙間から、強い太陽の光が漏れる。私は眩しい光に、目を細めた。そして私の心臓の鼓動に、耳を澄ませる。先輩と並んで歩く自分が、自分ではないみたいだった。心はフワフワと浮いて、どこか遠くへ飛んでいきそうだった。私は、舞い上がっていた。
「お忙しいところ時間をとってくれて、本当にありがとうございます」と私は言った。
「どうせ暇だったし、大丈夫だよ」と先輩はにこやかに笑った。
「でも、どうして学校に来ていたんですか?」私は緊張で震える声で訊ねた。
しかし先輩は、私の質問には答えず「これから、喫茶店に行くんだっけ?」と言ったので、私は即座に頷いた。
マンガやドラマの主人公が、トントン拍子に好きな人と結ばれるストーリーを、私はずっと陳腐だとバカにしてきた。しかし実際にそういう場面に身を置くと、嬉しくて、幸せで、満ち足りた気分になった。結局、不幸な私が僻んでいただけなのかもしれない。
この道の先には、オシャレな喫茶店がある。
私と先輩はそこでコーヒーを飲み、互いの失敗談などで腹の底から笑い合い、ラインを交換するぐらい仲良くなるんだ。家に帰ってラインでやりとりをして、次に会う日を決める。先輩は大学生で私は高校生だから、なかなか時間が合わないかもしれないけど、気長に待つつもりだ。そして三回目のデートで、私は先輩に告白される。私は頬を赤らめながら、こくんと小さく頷くんだ。少女マンガのヒロインが、そうするように。
私がそこまで妄想していると、先輩がふと、立ち止まった。
どこからか、セミの声が聞こえた。
目的のオシャレな喫茶店までは、まだ距離がある。
先輩は、喫茶店に向かうことを拒むかのように、そしてそこから始まる恋の物語を避けるかのように、小さく言った。
「ねえ、アキちゃんって知ってる? 二年四組だから、きっと君と同じクラスだと思うんだけど。俺、すげえタイプでさ。今日も先生に借りてた参考書返しに来るついでに、アキちゃんと仲良くなるきっかけを探してたんだよね。だから今、こうして君と歩いてるわけ。アキちゃんのライン、教えて欲しいんだけど、いいかな?」
セミの声が、一段と大きく聞こえた。
私の頬を、一筋の汗が伝った。
アスファルトの地面に転がったセミの抜け殻が、一瞬だけ自分の姿に重なり、私はそれを思いっきり踏みつぶした。粉々になったそれは、ぬるい風に吹かれ、散り散りになって消えていった。
私は、少女マンガのヒロインのようにはなれなかった。
先輩は、本当にアキちゃんのことが気に入っているのだろうか? それともただ、私とこれ以上、関係を進めていくつもりはないというだけだろうか?
まあ、もう、そんなのどっちでもいいや。
もうすぐ夏が来る。つらくて、長い夏が。
『夏の音』
今回は、アルバム『SHISHAMO2』に収録されている『君と夏フェス』の登場人物の、次の世代のお話になっています。
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夏には二種類あると、わたしは思う。一つは汗を流して駆け出したくなる夏、もう一つはクーラーのきいた部屋で昼寝をしたい夏。今日はわたしが好きな夏だ。
空は青く透き通っていて、ずっと眺めていると、自分が空と一体になったかのような錯覚におそわれる。わたしは空の青色にとけ込み、この上ない自由を感じる。その瞬間、汗の鬱陶しさも、セミの声の煩わしさも、すべてがわたしの背景になる。わたしの自由を後押ししてくれる。わたしはそんな夏が好きだ。
今日は、あいつに誘われフェスに行く。
わたしの両親は、夏フェスをきっかけに付き合ったらしい。「新しい君が見れたから、今日は本当に来て良かった」なんて言って、パパはママのことを口説いたらしい。普段はちょっと頼りないパパだけど、なかなかやるよね。
でもわたしは、ロック好きの両親の反動か、ロックのみならず音楽そのものが好きではない。そもそも、曲の良し悪しがわからない。別に聞けと言われたら聞くし、片思いの切ない歌詞に共感することはあるけど、それだけ。そのうち飽きて、やめてしまう。今や、どこにあるかすらわからない、アイポッド・タッチ、充電切れ。
だから、あいつからフェスに行こうと誘われたとき、あまり乗り気ではなかった。
「ねえユリカ、来月の十日なんだけど、暇?」
しかも、わたしが一番嫌いな誘い方。誘うときは、要件を先に言ってほしい。
「暇だけど、また映画か何か? いい加減、わたしじゃない人と行きなよ。そんなんだから、いつまでも彼女ができないんだよ?」幼馴染のよしみで、わたしはそう忠告した。
「いや、フェスに行こうかなと思って、夏フェス。高校生のうちに、一回は行っておきたくて。ユリカは音楽好きじゃないから、最初、高野を誘ったんだよ。でも二人きりってものあれだし、ついでにユリカも誘ったらって高野が言うからさ。まあ別に、無理して来ることはないけど」とあいつは言った。
「ふーん、サラちゃんも一緒なんだ」
「うん。あれ、ユリカって高野と仲良くなかったっけ?」
そんなことないと、わたしは首を振った。
「でもなんかユリカ、ちょっと怒ってるみたいだから」
「怒ってないよ。行くかどうか考えてるだけ」
あいつは、私より先にサラちゃんを誘っている。もしわたしが行かなければ、あいつはサラちゃんと二人きりでフェスに行く。
「いいよ、行くよ」とわたしは言った。
「まじで」とあいつは少しほっとした表情を浮かべた。
「どうせあんたとサラちゃんじゃ、十分も会話がもたないだろうから」
こうしてわたしは、人生初の夏フェスに行くことになった。
あいつは昔から、はりきりすぎるところが玉に瑕だ。会場が開く前に着かなければと必死。わたしは、別に会場が開いてからでいいじゃん、少しでも長く寝ていたいよ、とは言わない。サラちゃんが、ニコニコした顔であいつを見ているから。
何故だろう。これまであいつのことなんて、ただの幼馴染としか思っていなかった。でもサラちゃんがいると、あいつを少しだけ、ほんの少しだけ、意識してしまう。サラちゃんはどんな服装で来るのだろう? わたしよりオシャレだと思われたら厭だなあ。お化粧はしてくるだろうか? わたしより上手だったらどうしよう。どうせ見せるのはあいつなのに、いつもはスッピンジャージで会うような相手なのに、どうでもいいやとは思えないわたしがいた。
服装も化粧もバッチリ、さあ出発だと玄関に向かったとき、キッチンからママの声。
「ユリカー、フェスに行くんでしょ? 暑いんだから、帽子かぶって、首にタオル巻いていきなさい!」
こうしてわたしのフェスコーデは、ゲートボールに勤しむ六十代女性の格好に決まった。
「おまえ、年寄りみたいな恰好だな」とあいつは笑った。
「でも、ユリカちゃん、結構似合ってるよ」という、サラちゃんのフォローになっていないフォロー。わたしのメンタルは、早くもブレイク。
サラちゃんは、やっぱりオシャレだ。薄いブルーのシンプルなワンピース。胸元のシルバーのネックレスが、アクセントになっている。髪の毛は綺麗に巻かれていて、前髪は小さなヒマワリの花がついたピンで止められている。ガラスに映るわたしの服装を見るたびに、溜息がこぼれる。
フェスの会場には、すでに大勢の人が集まっていた。もっと、俗に言うパーリーピーポーばかりかと思っていたのだが、淡々と目的の場所まで歩いているか、日陰で駄弁っている人が多くてびっくりした。
そんな中を、あいつとサラちゃんは二人でずんずん進んでいく。わたしはその後を、ただひたすらついていくだけだった。なんだ、あいつ、サラちゃんとこんなに仲良かったんだ。わたしは今更、来たことを後悔した。
でも、ライブが始まると、そんなことはどうでもよくなった。CDで聞くのとは全然違った。音が、心臓に直接ぶつかってくるのだ。わたしは無意識のうちに右手を高く上げ、曲に合わせて振りまくっていた。演奏が終わると歓喜の声を上げ、大きな拍手を送った。なんだ、音楽、ロック、めちゃくちゃいいじゃん。
音楽の感動に包まれていると、時間が止まっているかのように感じた。すべてがスローモーションになる。肌を焦がす日差しも、絶えず流れてくる汗も、わたしの感動と興奮をかきたてた。
ふと気がつくと、隣にいたはずのあいつとサラちゃんの姿が見えない。二人で、いつの間に。そう思ったが、すぐにわたしの周りの景色が、すっかり変わっていることに気づいた。興奮のあまり、かなり前のほうまで出てきてしまったらしい。やってしまった。あいつとサラちゃんを、二人きりにさせないように、わざわざここまで来たのに。今ごろ二人は、この熱気と感動を、恋心に発展させているかもしれない。
トボトボと二人を探し回り、やっとのことで合流することができた。
「ユリカ、どんどん前に行っちゃうから、二人でビックリしてたんだよ。でも、楽しんでくれたみたいで、よかった」とあいつはニッと笑った。
あいつの唇の間からこぼれる白い歯に、わたしは胸の奥が熱くなった。これはフェスの興奮のせいなのだろうか。それとも。
あいつが、ちょっと俺トイレ、と走っていったとき、サラちゃんが言った。
「武藤君、すっごい嬉しそうだったね」
「だねー。これからもあいつのことよろしくね」とわたしは言った、あいつの幼馴染として。
「ううん、違うの」と、しかしサラちゃんは言った。「武藤君、ユリカちゃんとフェスに来れたのが、嬉しかったんだよ」
「え、そんな訳ないよ。わたし、ついでで誘われたんだから」とわたしが自嘲ぎみに言うと、サラちゃんはクスッと笑った。
「武藤君らしいなあ。武藤君、わたしに相談してくれたんだよ、ユリカちゃんとフェスに行きたいんだけど、音楽あんまり好きじゃないからどうしたらいいかな、って。どうしてもフェスじゃないとダメなのってわたしが訊いたら、ユリカちゃんの両親が、そうやって付き合ったから、一緒にフェスに行きたいんだ、って」
「え……?」とわたしが言葉を失っていると、あいつがトイレから帰ってきた。するとサラちゃんが、じゃあわたしもトイレ、と言った。
フェスの熱気のせいか、日が暮れても重たい熱風が吹いている。わたしの汗は止まらない。
あいつは、わたしの目を見つめていた。時が進むのが遅く感じる。汗は何度もわたしの頬を流れていく。
「あのさ、ユリカ……」とあいつは言った。「その……、す、……」
わたしは、ぐっと息を飲んだ。心臓の鼓動が、ドラムのように大きく響く。
「す……、すげえ楽しかったな、今日。ユリカのこと、誘ってよかったよ」
止まらないのは、二人の恋だ。
「なに、いきなり。らしくないこと言わないでよ」わたしは焦って目をそらし、こぶしであいつの肩を軽くぶった。
「痛ぇ、なにすんだよ」とあいつは笑った。
この時間が、いつまでも続けばいいのに。あいつとわたしの夏を、どこまでも駆けていきたい。今年の夏は、まだ始まったばかりだ。
『東京タワーの見えるコーヒーショップ』
第1回目の投稿は、SPARK BOXで、吉川さんに朗読していただいた、『東京タワーの見えるコーヒーショップ』という小説にしました!
この小説は、アルバム『SHISHAMO』に収録されている『こんな僕そんな君』のアナザーストーリーになっています。
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そのコーヒーショップは、慢性的な腰痛に苦しむ店主の小さな咳払いとコーヒーが沸くときの音をのぞくと、とても静まり返っていた。店内に客は一人しかおらず、その客は誰かを待っている様子で窓から見える東京タワーに背を向けながら、大江健三郎の小説の同じページを難しい顔でじっと睨み、物音一つ立てずにいた。
カランカランと軽い鈴の音が鳴るとともに、夕暮れを示すしっとりした秋風が店内にそよそよと吹き込んだ。垢ぬけた二人の女性が――一人は世の中のあらゆる事物が不服だと主張するように眉間にしわを寄せ、もう一人はなで肩のためにずり落ちてくるリュックサックに苛立ちながら――店内に入ってきた。
不服そうな女、サクラはこのコーヒーショップの勝手をわかっているようで、店主に指示されるでもなく、窓際の東京タワーが一番よく見える席に座った。苛立つ女、ミキはサクラに続いてサクラの向かいの席に座った。
「わたし、ここから見える東京タワー、好きなんだ」とサクラは言った。「今の彼氏が最初のデートのときに連れてきてくれたの。そのときこの東京タワーを見て、これから幸せになるんだって思ったんだけどなあ」
店主はホットコーヒーと小さいビスケットを、二人のテーブルに静かに置いた。このコーヒーショップには、ホットコーヒーしかメニューはない。慢性的な腰痛にあえぐ腰を気遣いながら店主は、ビスケットはサービスねと呟いて元いた場所に戻っていった。
「まだ手も繋いでないんだっけ」とミキは呆れたように言った。
サクラは頷く代わりにラメ入りのケースに入ったスマートフォンの画面をつけて、待ち受けにしている佐藤健の画像をぼんやりと見た。彼氏でなくとも、佐藤健がわたしの手を握ってくれたらどれだけいいのだろうと、サクラは絶望的な響きとともに感じた。
「あーあ、イケメンと遊びたいなあ」
サクラは、ガムシロップを三つも入れたコーヒー色の液体をスプーンで執拗にかき混ぜながら、左手でいつもと違う派手なネックレスをもてあそび、右手で太宰治のように頬杖をついていた。
「わたしって、一途な女になれるかなあ」
その呟きを聞いていたミキは、溜息とともに
「イケメンと遊びたいとか言ってる時点で一途ではないよね」と吐き出すように言った。
「でもね、でもね」とサクラは、毛先を器用にカールした栗色の髪の毛を新体操のリボンのように指先でクルクルと回しながら言った。「彼氏が、寝なければ他の男と遊んでもいいって言ってくれたから、遊んでも浮気じゃないんだよねえ」
ミキは肺の空気をすべて吐き出すことを目的としている以外考えられないほど大きな溜息をついた。
「手も繋がない上に他の男と遊ぶのを許すなんてさ、どうかしちゃってるんじゃないの、あんたの彼氏」と頭を指差しながら言い、本気で心配そうな顔をした。
「そういう性癖があるとかさ」
「うーん」とサクラは頭の悪い人がよくするように顔をしかめて考えてから言った。「悪いやつじゃないんだけど、なんか物足りないんだよねえ」
「ああもう! 背が高くて、色白で、イケメンな男と遊びたい!」とサクラは意味もなく叫んだ。
「そういう人と、そういう雰囲気になっちゃったらどうすんの? 彼氏との約束、守れんの?」とミキは現実的に訊ねた。
「まあ無理だよねー」とサクラは即答した。「だってイケメンだもん」
あっけらかんとしたサクラを見て、ミキは不意に笑った。つられてサクラも意味もなく笑った。静かなコーヒーショップに、二人の笑い声だけが響いた。このコーヒーショップで他に聞こえるのは、やはり慢性的な腰痛に苦しむ店主の小さな咳払いと、コーヒーが沸くときの音だけだった。大江健三郎の小説を読む男は、相変わらず同じページをじっと見つめたまま石像のごとく沈黙していた。
コーヒー色の砂糖水を飲みながらサクラは、自分がまさに岐路に立っているということを全身で実感していた。彼氏のマサキとは、別れたほうがいいのかもしれないと思った。サクラは、マサキがなぜ自分に触れたがらないのか理解することができず苦しんでいた。前の彼氏はサクラが煩わしさを感じるほどサクラのあちらこちらに触れたがっていた。そういう所も男の性質だとサクラは信じていたため、マサキの行動は不可解であり、自分に対して
不満や嫌悪があるのではないかと思うようになっていた。
夜になって、東京タワーがライトアップされた。サクラはその真っ赤に光る東京タワーを目で、頭で、体で感じた。そしてマサキとの思い出が走馬灯のようにサクラの頭をかけめぐった。中華街、わたしが勢いよく嚙みついた小籠包からだし汁がマサキの顔に飛び散ったっけ。そのあとマサキ、一時間ぐらい口をきいてくれなかったなあ。昭和記念公園で二人乗りの自転車に乗ってサイクリングもした。新しいラーメン屋ができると、一緒にその行列にも並んだ。あれ、マサキにもらったネックレス、どこやったっけ……?
「ねえ、ミキ」とサクラは言った。いつもより低く、小さな声。「わたし、マサキと別れることにする」
少し間をおいてからミキは、
「そっか、そのほうがいいと思うよ」と言った。
「わたし、マサキときたこの場所で、きちんと別れたい。今、マサキをここに呼んでもいいかな?」とサクラは言った。
ミキは母のように優しい表情を顔にたたえながらゆっくりと頷いた。サクラはスマートフォンを取り出して、マサキに電話をかけた。これがマサキにかける最後の電話かと思い、スマートフォンを持つ手が少し震えているのがわかった。
直後、コーヒーショップにTheピーズの《手を出せ》が響いた。サクラとミキは、戸惑ったように店内を見回した。大江健三郎の小説を読む男が、ポケットからスマートフォンを取り出した。サクラは表情を固めたまま、これまで存在すら意識しなかったコーヒーショップにいた客の背中に視線を奪われていた。コーヒーショップに響く他一切の音を排除するような電話の着信音は、スマートフォンの所有者に向けて必死に訴えかけていた。
手を出せ 手を出せ
手を出せ 手を出せ
ぼやぼやしてたら あの子は誰かの
いいコになっちゃうよ
複雑な表情を浮かべながら、大江健三郎の小説を読む男、マサキは鉛のような溜息をつき、スマートフォンの電源を切った。
「まだ、サクラが他の男と浮気しているところを見たほうがよかった気がするよ」とマサキは言葉を置くように言った。「ぼくには刺激が強すぎたみたいだ」
マサキは荷物をまとめてテーブルの上に千円札を丁寧に置くと、カランカランと軽い鈴の音を鳴らしてコーヒーショップを後にした。マサキには、遠くに行ってしまったサクラの陰すら、抱くことができなかった。マサキは東京タワーに向かって走り出したい気分だったが、そんな元気もなく、トボトボと歩いた。
東京タワーの見えるコーヒーショップは、慢性的な腰痛に苦しむ店主の小さな咳払いとコーヒーが沸くときの音をのぞくと、とても静まり返っていた。