かなたブログ

SHISHAMOが大好きで、SHISHAMOの曲にインスパイアされた小説を書いています。昔、SPARK BOXで、『東京タワーの見えるコーヒーショップ』という小説を吉川さんに朗読していただきました。

『東京タワーの見えるコーヒーショップ』

第1回目の投稿は、SPARK BOXで、吉川さんに朗読していただいた、『東京タワーの見えるコーヒーショップ』という小説にしました!

この小説は、アルバム『SHISHAMO』に収録されている『こんな僕そんな君』のアナザーストーリーになっています。

 

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 そのコーヒーショップは、慢性的な腰痛に苦しむ店主の小さな咳払いとコーヒーが沸くときの音をのぞくと、とても静まり返っていた。店内に客は一人しかおらず、その客は誰かを待っている様子で窓から見える東京タワーに背を向けながら、大江健三郎の小説の同じページを難しい顔でじっと睨み、物音一つ立てずにいた。

 カランカランと軽い鈴の音が鳴るとともに、夕暮れを示すしっとりした秋風が店内にそよそよと吹き込んだ。垢ぬけた二人の女性が――一人は世の中のあらゆる事物が不服だと主張するように眉間にしわを寄せ、もう一人はなで肩のためにずり落ちてくるリュックサックに苛立ちながら――店内に入ってきた。

 不服そうな女、サクラはこのコーヒーショップの勝手をわかっているようで、店主に指示されるでもなく、窓際の東京タワーが一番よく見える席に座った。苛立つ女、ミキはサクラに続いてサクラの向かいの席に座った。

「わたし、ここから見える東京タワー、好きなんだ」とサクラは言った。「今の彼氏が最初のデートのときに連れてきてくれたの。そのときこの東京タワーを見て、これから幸せになるんだって思ったんだけどなあ」

店主はホットコーヒーと小さいビスケットを、二人のテーブルに静かに置いた。このコーヒーショップには、ホットコーヒーしかメニューはない。慢性的な腰痛にあえぐ腰を気遣いながら店主は、ビスケットはサービスねと呟いて元いた場所に戻っていった。

「まだ手も繋いでないんだっけ」とミキは呆れたように言った。

 サクラは頷く代わりにラメ入りのケースに入ったスマートフォンの画面をつけて、待ち受けにしている佐藤健の画像をぼんやりと見た。彼氏でなくとも、佐藤健がわたしの手を握ってくれたらどれだけいいのだろうと、サクラは絶望的な響きとともに感じた。

「あーあ、イケメンと遊びたいなあ」

 サクラは、ガムシロップを三つも入れたコーヒー色の液体をスプーンで執拗にかき混ぜながら、左手でいつもと違う派手なネックレスをもてあそび、右手で太宰治のように頬杖をついていた。

「わたしって、一途な女になれるかなあ」

 その呟きを聞いていたミキは、溜息とともに

「イケメンと遊びたいとか言ってる時点で一途ではないよね」と吐き出すように言った。

「でもね、でもね」とサクラは、毛先を器用にカールした栗色の髪の毛を新体操のリボンのように指先でクルクルと回しながら言った。「彼氏が、寝なければ他の男と遊んでもいいって言ってくれたから、遊んでも浮気じゃないんだよねえ」

 ミキは肺の空気をすべて吐き出すことを目的としている以外考えられないほど大きな溜息をついた。

「手も繋がない上に他の男と遊ぶのを許すなんてさ、どうかしちゃってるんじゃないの、あんたの彼氏」と頭を指差しながら言い、本気で心配そうな顔をした。

「そういう性癖があるとかさ」

「うーん」とサクラは頭の悪い人がよくするように顔をしかめて考えてから言った。「悪いやつじゃないんだけど、なんか物足りないんだよねえ」

「ああもう! 背が高くて、色白で、イケメンな男と遊びたい!」とサクラは意味もなく叫んだ。

「そういう人と、そういう雰囲気になっちゃったらどうすんの? 彼氏との約束、守れんの?」とミキは現実的に訊ねた。

「まあ無理だよねー」とサクラは即答した。「だってイケメンだもん」

 あっけらかんとしたサクラを見て、ミキは不意に笑った。つられてサクラも意味もなく笑った。静かなコーヒーショップに、二人の笑い声だけが響いた。このコーヒーショップで他に聞こえるのは、やはり慢性的な腰痛に苦しむ店主の小さな咳払いと、コーヒーが沸くときの音だけだった。大江健三郎の小説を読む男は、相変わらず同じページをじっと見つめたまま石像のごとく沈黙していた。

 コーヒー色の砂糖水を飲みながらサクラは、自分がまさに岐路に立っているということを全身で実感していた。彼氏のマサキとは、別れたほうがいいのかもしれないと思った。サクラは、マサキがなぜ自分に触れたがらないのか理解することができず苦しんでいた。前の彼氏はサクラが煩わしさを感じるほどサクラのあちらこちらに触れたがっていた。そういう所も男の性質だとサクラは信じていたため、マサキの行動は不可解であり、自分に対して

不満や嫌悪があるのではないかと思うようになっていた。

 夜になって、東京タワーがライトアップされた。サクラはその真っ赤に光る東京タワーを目で、頭で、体で感じた。そしてマサキとの思い出が走馬灯のようにサクラの頭をかけめぐった。中華街、わたしが勢いよく嚙みついた小籠包からだし汁がマサキの顔に飛び散ったっけ。そのあとマサキ、一時間ぐらい口をきいてくれなかったなあ。昭和記念公園で二人乗りの自転車に乗ってサイクリングもした。新しいラーメン屋ができると、一緒にその行列にも並んだ。あれ、マサキにもらったネックレス、どこやったっけ……?

「ねえ、ミキ」とサクラは言った。いつもより低く、小さな声。「わたし、マサキと別れることにする」

 少し間をおいてからミキは、

「そっか、そのほうがいいと思うよ」と言った。

「わたし、マサキときたこの場所で、きちんと別れたい。今、マサキをここに呼んでもいいかな?」とサクラは言った。

 ミキは母のように優しい表情を顔にたたえながらゆっくりと頷いた。サクラはスマートフォンを取り出して、マサキに電話をかけた。これがマサキにかける最後の電話かと思い、スマートフォンを持つ手が少し震えているのがわかった。

 直後、コーヒーショップにTheピーズの《手を出せ》が響いた。サクラとミキは、戸惑ったように店内を見回した。大江健三郎の小説を読む男が、ポケットからスマートフォンを取り出した。サクラは表情を固めたまま、これまで存在すら意識しなかったコーヒーショップにいた客の背中に視線を奪われていた。コーヒーショップに響く他一切の音を排除するような電話の着信音は、スマートフォンの所有者に向けて必死に訴えかけていた。

 

手を出せ 手を出せ

手を出せ 手を出せ

ぼやぼやしてたら あの子は誰かの

いいコになっちゃうよ

 

複雑な表情を浮かべながら、大江健三郎の小説を読む男、マサキは鉛のような溜息をつき、スマートフォンの電源を切った。

「まだ、サクラが他の男と浮気しているところを見たほうがよかった気がするよ」とマサキは言葉を置くように言った。「ぼくには刺激が強すぎたみたいだ」

 マサキは荷物をまとめてテーブルの上に千円札を丁寧に置くと、カランカランと軽い鈴の音を鳴らしてコーヒーショップを後にした。マサキには、遠くに行ってしまったサクラの陰すら、抱くことができなかった。マサキは東京タワーに向かって走り出したい気分だったが、そんな元気もなく、トボトボと歩いた。

 東京タワーの見えるコーヒーショップは、慢性的な腰痛に苦しむ店主の小さな咳払いとコーヒーが沸くときの音をのぞくと、とても静まり返っていた。