「小瓶」
SHISHAMOの『花』という曲を題材に
「小瓶」というタイトルで小説を書きました。
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行かないで。
泣きそうな言い方、怒った言い方、眠そうな言い方、呆れた言い方、甘えた言い方、高慢な言い方、下卑た言い方……。
色々なパターンを考えてみるけど、どれもしっくりとこない。
行かないで。
実際にそう呟いて、わかった。あなたには、この言葉は似合わない。あなたはどこにでも行けて、わたしにはそれを止めることができない。
あなたと出会ったのは、大学の研究室だった。わたしは学部の4年生で、あなたは修士の2年生だった。
あなたはよく、研究室で缶ビールを飲んでいた。わたしは卒論を書きながら、あなたをよく、横目でチラチラと見ていた。
「ビールを飲むと、気持ちよくゲップが出るんだ」
あなたが初めてわたしに発した言葉は、ゲップについてだった。そしてあなたは缶ビールを持ち上げて、わたしに訊ねた。
「なに、飲みたいの」
でも、卒論が。
「おれだって、修論」
じゃあ、なんで。
「少しアルコールを入れたほうが、頭がさっぱりとするだろ」
そうかな。逆な気がするけど。
「なあ、論文に必要なことって何かわかるか」
論理性、新奇性、再現性。
「マジメか。正解は、指導教員をいかに欺くかだ」
でも。
あなたは2留してるじゃない、という言葉は仕舞っておいた。かわりに、わたしにもビールを頂戴、と言った。
あなたのことを不思議な人だと思っていたら、気づいたときにはあなたと体を重ねていた。
だめ。
誰もいない、深夜の研究室だった。
わたしは抵抗したが、あなたは、わたしが本気で抵抗するつもりがないことに、気づいているようだった。
「厭ならなんで、おれがキスをしたら、舌を入れてきた」
わたしは、頬が熱くなるのを感じた。
そしてわたしたちは、声を抑えてもう一度愛し合った。
それから5年。
あなたは3度浮気をして、わたしは3度あなたを許した。そしてわたしたちは結婚した。両親にはかなり反対された。それもそうだ。あなたは結局大学院を卒業できず、わたしの卒業と同時に除籍となった。
その後は、小説家になると言ってみたり、カフェを開くと言ってみたり、おれはダメな人間だと言って鬱の真似事をしてみたり、あなたはいつも何かになりたがっては、何にもなることはできなかった。
わたしの夫になら、なれるんじゃないかな。
これといって、考えがあるわけじゃなかった。ただ、だんだん崩れていくあなたを、見ていられなかった。
「同情か」
あなたは卑屈に笑った。
わたしは、違う、とは言えなかった。違う、と言った瞬間に、あなたを本当に侮辱することになる気がした。だから、わたしはただ、あなたを抱きしめた。
もう、もがかなくていいの。何かになろうとなんて、しなくていいの。あなたは、わたしの夫だから。ただ、ここにいて、わたしを愛して。
でも、わたしと結婚してもなお、あなたは浮気を繰り返した。浮気相手と会うときは、いつも飲むコーヒーを、飲まない。
行かないで。
コーヒーを飲まずに出かけていくあなたの背中に、そう伝えるべきだろうか。でも、あなたに言っても仕様がないことは、わたしが一番よく知っている。あなたは、いつかどこかへ行ってしまうような、そんな女に惹かれてしまう。
わたしだって、いつまでも、今のわたしのままでは、いられないのよ。
今日は、コーヒーを飲むだろうか。今日はわたしたちが付き合って、5回目の記念日だ。
わたしはあなたの喉元を、じっと見ている。あなたはわたしの視線にも気づかず、上の空だ。あなたの喉元を、コーヒーが通れば、わたしは自分を失わずにすむ。
お願い、飲んで。
わたしはインターネットで買ったガラスの小瓶を、少し汗ばんだ手にぎゅっと握りしめた。
わたしが、何者かになってしまう前に。わたしを、あなたの恋人でいさせてください。あなたの妻でいさせてください。わたしは、どこにも行かないから。あなたがあなたでいるところを、ずっと見続けるから。
あなたはすっと立ちあがり、コートを羽織って出かけていく。
わたしは、あなたが出ていった部屋で、テーブルの上に残る冷めたコーヒーを、ずっと見つめていた。
手の中の小瓶が、汗で滑って床に転がり落ちた。
わたしは……、わたしも……。
広がっていく小瓶の液体を見ながらそう呟いて、わたしはそこで、口を噤んだ。